東京医科大学

呼吸器・甲状腺外科学分野

分野紹介

呼吸器・甲状腺外科学分野の歴史

1918(大正7)年-

佐藤清一郎
佐藤清一郎

 1918(大正7)年に順天堂医院外科部長の佐藤清一郎が兼任として教授に就任した。佐藤は肺臓外科を専門とし、1923(大正12)年には日本で最初の肺癌切除を報告した。

 

1944年-1968年

篠井金吾教授
篠井金吾

 1944(昭和19)年3月、第二次大戦只中の非常な混乱の中で東京医専の教授に就任したのが篠井金吾である。1948(昭和23)年には東京医科大学の教授に就任となる篠井は、当時まだ黎明期といえる胸部外科に佐藤と同じく造詣が深かった。教授就任以前にも「気管支造影法」、「肺壊疽の外科」など外科学会の宿題報告を佐藤とともに担当し、1954(昭和29)年には第7回日本胸部外科学会会長の任を全うした。さらに1955(昭和30)年、千葉大学河合直次教授、慶應義塾大学石川七郎助教授とともに第55回日本外科学会総会の宿題報告「肺腫瘍」の担当となり、その後3施設で定期的に検討会を開催した。それが元で1960(昭和35)年肺癌研究会の発足となり、1966(昭和41)年、現在の日本肺癌学会へと発展した。

 1956(昭和31)年、大学院の設置に伴い外科教室は一教室三講座制をとることになり、主任教授の篠井は肺臓外科を中心とする外科一班の教授に就任した。

 篠井は肺移植の重要性にも早くから着目し、1965(昭和40)年に世界で第3例目、日本では初の部分肺移植を行った。1966(昭和41)年、外科学会の副会長となり、翌年には会長の任を執る予定であったが、病のために急逝した。

 

1969年-1989年

早田義博教授
早田義博

 病に倒れた篠井を継いで、1969(昭和44)年に主任教授に就任したのが早田義博である。早田は肺癌培養細胞を樹立し、肺癌の基礎実験に広く用いられるに至った。また、イヌの中枢気道に人工的に肺癌を作製し、その発癌過程を解明した。さらにこれを用い、腫瘍親和性光感受性物質と低出力レーザーを用いた光線力学的治療(Photodynamic therapy: PDT)の開発などを行った。

日本外科学会、日本胸部外科学会、世界肺癌会議などの会長を歴任するとともに、故篠井教授が昭和2年に創立した上高地東京医大診療所を改築し、ネパールエベレスト近くには東京医大高山医学研究所を設置しネパール王家の健康診断なども行い、ネパールの医学教育向上のために早田基金を創設するなど高山医学に対して多大な功績を残し、ネパール国王から勲章を授与された。

 

1990年-2007年

加藤治文教授
加藤治文

 1990(平成2)年、早田とともに世界初のPDTによる肺癌治療を行った加藤治文が主任教授に就任した。加藤は経皮的肺穿刺に用いる東京医大式穿刺針や郵送用喀痰細胞診容器(東京医大式ポストチューブ)の開発で肺癌の早期発見・診断に注力するとともに、世界の先駆者としてPDTによる早期肺癌治療を標準治療になるまでに普及させた。さらに蛍光気管支鏡、超音波気管支鏡、optical coherence tomography(OCT)による気管支病巣解析、肺移植の基礎研究、肺癌遺伝子診断・治療、肺癌蛋白解析などの研究を行った。肺癌術後補助療法の多施設共同研究はNew England Journal of Medicineに収載された。また、国際肺癌学会、国際細胞学会、世界気管支学会、日本呼吸器外科学会、日本気管支学会、日本気管食道科学会、日本レーザー医学会などの会長を歴任し、日本臨床腫瘍研究グループ(JCOG)外科グループの代表も務めた。

 

 

2008年-

池田徳彦教授
池田徳彦

 東京医大呼吸器外科の歴史はまさに日本の呼吸器外科の歴史と言っても過言ではない。2008(平成20)年より池田徳彦が主任教授に就任し、呼吸器・甲状腺外科領域の更なる高い総合力を有する教室を目指している。